「講堂」についてのお話


 昭和55年、上越教育大開学以前、高田西城町布袋や交差点前(現在付属小学校横の大きな空き地)には、
新潟大学教育学部高田分校校舎があり、教育学部の音楽専攻コースと、さらに専門的な特設音楽科がありました。

 その校舎の南端に講堂があって、音楽科の教授や、学生達が、日常的に音楽会を催していた時期がありました。
この場所を借りて、合唱部の演奏会はスタートしました。

 第1回演奏会は、高校創立100周年記念事業の中での開催で、実質的な自主開催はこの2回目からになります。

 その後、新潟大学の統合移転に伴い、現在の様な空き地になりました。

 当時、高田高校にも講堂があったのです。現在グランド横に2棟の体育館が並んでいますが、その内北側の小さい方が、以前講堂だったのです。旧制中学時代の建物で、北側に、南向きのステージがあり、ステージの奥には大きな扉があって、その中には、戦前、天皇の御真影が納められていたとか。(管理人注:当時の学生達の間ではそのように言い伝えられていたそうです。)戦後は学籍簿や、成績原簿の保管庫であったとの事でしたが、日常的には、学年集会程度の集会や、球技を除く体育館として使用していた所でした。

 最初からそこを使えば良かった様な物ですが、実は、その頃から、 学校の管理がうるさく言われ出した頃で、休日や、夜間に借りて、しかも校外の第3者が出入りする催しを開催するのは、非常に手続きが厄介だった為でした。ちょうどその頃から、服部先生が、非常勤ではありましたが、高校教員として、在籍していたという事で、顧問の先生と共に、多大な尽力を頂いたと聞いています。

 その後この講堂も体育館として改築された事と、管理上の問題もあって、会場を厚生南会館に移し、現在に至っています。

  (茨木 真 様より情報提供頂きました。)2002年10月掲載


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