「講堂、旧音楽室」についてのお話


 2〜4回の定演は新大高田分校講堂で行われましたが、夜間の本校講堂の使用が厄介であったこと、音響が悪いこと、新大講堂が高田の音楽の殿堂であったことなどで、新大音楽科の主任でおられた篠原正敏先生にお願いにいったら、快諾しくださいました。(私が高校生のころ、先生は新進の新大音楽科の声楽の先生で、高田高校の音楽選択者のために非常勤講師でおいでになりました。「冬の旅」の第1曲おやすみを歌ってくださったことを50年以上たった今でも鮮明におぼえている)

 新大講堂は20世紀後半の半世紀間、高田の音楽ファンの音楽の殿堂であり続けてきた。高田高校の合唱部OBの何人かが音楽科の学生としてそのステージにたったことでしょう。私も高田の秋の風物詩になっていた「新大のメサイヤ」に3度ほど出させてもらった記憶がある。すごく緊張し、感激したものである。高校合唱部の定演に講堂を貸してくれた大学はおおらかであったとおもう。

 旧音楽室は、1942年秋の火災で焼け残った柔道場であった。体育館のすぐ西側にあった。それを私が中1年生の1944年にプールの北側まで引っ張り、おしこくって移動させた。南半分は音楽室、北半分は工作室?になった。1957年の火災でも焼け残り、急場は教室になったが、南側は音楽室、北側は家庭科室、小部屋が校長室、用務員室になった。

 1960年ころには、合唱部が毎日練習していて、その声が第1棟の教務室にもよく聞こえてきた。6時近くに練習が終わり、いつも音楽室から第2棟の廊下を通って教務室前を大きな声で歌って帰る女生徒が1人いた。丸山正子さんであった。大方の先生はその歌声を楽しんでいたのである。「丸山が帰るし、私も帰りましょうかね」私の恩師でもあったその先生を音痴と思っていた私は大いに恥じ入ったものである。丸山さんは第1回の定演で日本歌曲を歌われた。

  (2004年8月、籠島 圭二 様より情報提供頂きました。)2005年3月掲載


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